お父さんと食事 

[制作年(制作場所)/ 時間] : 2000年(茨城、日本)/ 6時間、2008年(金沢、日本)/ 6時間 (ショートバージョン14分46秒)、2012年(福島、日本)/ 8時間、2013年(台北、台湾)/ 8時間、ショートバージョン39分8秒、2014年 (クレニー村、ブルキナファソ) / 50分20秒

[マテリアル] : パフォーマンスを記録し編集したビデオによるインスタレーション

 

 私はこの作品を2000年から継続的に日本国内外で制作しています。この作品では、見知らぬ男性と私が一回の食事の間だけ、お互いに「親子になる努力をする」という約束をして食事をします。参加してくれた男性も私もプロの役者ではありません。また、私と男性の間にはシナリオはありません。私たちを繋げるものは「親子」というもののあやふやなイメージだけです。私達は、ある回では仕事や結婚について話し合い、口喧嘩をし、ある回では言葉をほとんど交わさず仕草だけで親子らしくあろうとしました。毎回全く違う親子像が浮かび上がります。それらはすべて「親子」という関係を築く為の試みでした。

 食事はプライベートとパブリックを行き来する行いだと思います。ものを味わう知覚は個人の身体に強く結ばれたものです。しかしそれだけではなく、食事という行いは人を、同席した相手をはじめ、他者や社会に関わらせる働きがあるのではないでしょうか。

 そして、食事と同様に「声」もプライベート(私)とパブリック(公)を行き来する行いだと思います。自分の体という極私的なものをふるわせて、体の外へ押し出された「声」は、他者の体を振るわせて他者に届きます。元来、人々はその「声」を「言葉」というコミュニケーションの為の「型」に作りかえてきたのではないでしょうか。

「お父さんと食事」の時、私たちは関係を築く為に言葉を必死に選びました。日本国外での「お父さんと食事」では尚更です。お互いが別の言語を使うとき、相手の伝えたいことが言語の上では理解できません。しかし私たちはそれでも何かを伝え受け取ろう、関係を作ろうと挑戦しました。

「いくら語っても絶対にこの言葉の意味は通じない」それを解っていても尚相手に何かを伝えようとするとき、発せられる言葉は、意味よりも響きや震え方に重点が置かれた原初的な「声」の姿に近くなります。また受け取る側も同じく、意味ではなく相手の気持ちの震えを「声」から読み取ろうとします。こうした「声のやりとり」はお互いを絶対的な他者であることを認めながら、それでも関係性を結ぼうとしたとき生み出される1つの「型」なのだと私は思います。

私たちは食事中些細な「声」や仕草一つ一つを大事にしました。関係性を作る為の「型」を慎重に探っていたのです。これは本当に基本的なコミュニケーションへの挑戦です。たとえば、一組の恋人達を描いた恋愛物語は、とても個人的な関係性を描きながら、物語が語られた時代背景や社会状況、そしてその時代の人々の願いが反映されています。私は「お父さんと食事」での一組の架空の親子の食事にも、文化や風習、歴史、願いなどが織りこまれるのではないかと考えています。

 

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